大量の労働者が金鉱地へ流出したでは市の機能が麻痺しかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどであった。 議会の混乱を見兼ねた連邦総督 John Kerr は1975年11月、憲法第64条を根拠に首相を解任し、野党自由党党首のフレイザーを暫定首相に任命した。
8アボリジニとの抗争 これまではオーストラリアの歴史をイギリス人の立場から書いてきました。
入植当初は厳しい自然環境から植民地としての整備は難航したが、流刑者に開墾地を与えてから植民地経営は上向き、19世紀にはタスマニアの領有も宣言。
現在はバララットとベンディゴの金は掘り尽されたため、鉱業は途絶えましたが、この2つの町はその後も農業や観光業を中心に地方都市として健在です。
そのために新たな流刑地として巨大なオーストラリア大陸を必要としていたのです。
しかし、軍団の元将校ら現地の有力者がこれに反発。 - 下院、ヤス=キャンベラ地域を首都建設地に選定。
18世紀の後半のイギリスは、資源の獲得や流刑地の建設のため、開発を本格的に進めるようになります。
- フランシス・トマス・グリゴリー、西オーストラリアを探検。
その後、より入植に適した土地を求めて、北に12キロメートルの内のを発見した。
このことをよくあらわす一件であると言えよう。
賛成多数で離脱決定• 獨協大学の教授であるはオーストラリア研究の権威者でもあるのですが、その著書「」で次のように述べています。 それ以後、マクォーリーは、正式な通貨の流通をすすめ、病院や道路、銀行などの生活インフラ建設を推進して、現地の生活環境を向上させていきました。
19民主党結成• その場合、苦労して海外領土を得ても、その海外領土もイタリアの植民地になってしまうか、本国との連絡が絶えて、フランスやイギリス領になってしまう可能性が高かった。
- 地方党結成• こうした労働運動に参加した人々が政治犯として逮捕され、一般の犯罪者の仲間入りをさせられたのです。
アボリジニは5万年ほど前にオーストラリアに住むようになったのではと長い間考えられていましたが、2017年に新しい化石が発見され、それによるとアボリジニがオーストラリアに住むようになったのは、もっとずっと前の65,000年も前からだということが証明されました。
7そしてついに、1901年1月1日に国家政府を持つオーストラリア連邦が生まれました。
好調だった資源ブームに陰り さて、好調だった資源ブームに陰りが出てきたのは2012年ころです。