旧土岐家の家臣たちは、道三の国盗り経緯に納得しておらず、ほとんどが義龍に味方します。
とは言え、裏切りや下克上を見た者が、何も感じないわけはありません。
美濃斎藤氏のその後 [ ] 利治の子の(新五郎)と(兵左衛門)は、最初はに、後に義興は、市右衛門はに召し抱えられ、義興の子孫は士として続いた。 康正元年(1455)、常縁は幕命によって下総国に発向した。
17弟が兄を、分家が主家を、平民が君主を討とうとする「下克上」が、道三が来る前から続いていたのです。
この時はまだ家系を代表するというような意味合いのものは出来上がっていませんでした。
親子の確執の末、1556年(弘治2年)に父・斎藤道三と息子・斎藤義龍による「長良川の戦い」が勃発。 「斎藤道三」(さいとうどうさん)と言えば、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県南部)を乗っ取った、成り上がり武将として有名です。 当時他の戦国大名が次々に打ち出している民政の新しい施策に匹敵するものの片鱗すら窺えなかったのである。
14(改題・改稿)『天を食む者 斎藤道三』上・下巻(学研M文庫、2014年)• 現にこの時義龍はその道三が可愛がっていた他の弟である孫四郎や喜平次を殺害しています。
斎藤道三は、娘婿の織田信長に援軍を要請したものの間に合わず、討死。
長井 規秀(ながい のりひで) 1533~• この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、との稽古をして武芸の達人になったという。
土岐家自体を慕う旧臣は多く、道三は美濃平定後も常に不穏分子に悩まされ、国内統制に苦慮している。
成頼から後継のことを委嘱された利光は、野望を達する好機として同士を集めた。
(猪子兵介は、のちに織田信長に仕え、「」で亡くなっている) 道三は、「うつけ者(バカ者)」と評判だった若武者「織田信長」の実力を、一瞬で見抜いたのでした。 子孫はに仕えた。 例えば斎藤氏を称する前の長井姓時代には、長井氏の紋である「一文字三星」が使われました。
20まず斎藤道三は、 土岐頼芸の弟「土岐頼満」を毒殺します。
斎藤道三が娘の帰蝶を織田信長の妻へと送り出したあとの話で、斎藤道三自ら織田信長に会見を持ちかけました。
ただし、彼の前半生には謎が多く、伝承に彩られています。 また、本来の斎藤氏が使用した撫子紋は、花弁の細かい形状を別にすると国主・土岐氏の「桔梗紋」とそっくりなレイアウトとなっています。
12外部リンク [ ]• 『姓氏家系大辞典』 第2巻、、監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2451-2467頁。
帰蝶(濃姫) 斎藤道三は、ただ優れた先読み力で美濃国主まで上り詰めた訳ではありません。